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煌めきボタン お薦め異説日本史研究本の紹介!! 煌めきボタン


煌めきボタン 日本史史上最大の一人二役!! 煌めきボタン

Tsuki Tsuki        Tsuki Tsuki

     ◎ 正統日本史に疑問を感じる方へお薦めの一冊!!

        『聖徳太子は蘇我入鹿である』  関 裕二
              (KKベストセラーズ ワニ文庫)


 日本史史上で聖徳太子ほど多くの人々に親しまれ、人徳の高さを称えられる人物は少ないが、しかしまた、聖徳太子ほどその実像が謎に包まれている人物も他にあまり類を見ないであろう。
 今日我々がイメージする聖徳太子像というのは、意外にも正統日本史とされる古事記・日本書紀(以下記紀)以外の資料を出所とするものが多いのである。たしかに記紀を読めば聖徳太子が偉人であることは伝わるのだが、 それとて我々がイメージする程の聖人君子という聖徳太子像には到底到らないのである。
 そこら辺が原因ではあるのだが古来、聖徳太子に対しては数多くの異説・異伝が出されてきたのである。
 ここで紹介する関裕二氏の著作は数多い聖徳太子に関する異説の中でも最たるもので、題名を見ただけでも荒唐無稽、少しでも同時代史を記憶している者であれば笑止千萬と笑い飛ばしたくなるものであろう。

 まず第一に、聖徳太子と蘇我入鹿では生没年に親子ほどのずれが有り、通常であれば一人二役を演じるのには無理がある。ところが関氏の研究によれば蘇我馬子の孫とされている入鹿は実は子であり、馬子の子、入鹿の父とされている蝦夷は実在しないというのである。
 いや、蝦夷が実在しないというよりは、入鹿の在年をぼかすため入鹿一人を二人に分けて記したというべきであろう。大きな一人二役の蔭に、もうひとつ小さな一人二役が存在したのである。
 第二に、一般に聖徳太子と蘇我入鹿は直接ではないにしても敵対関係にあると見なされている。蘇我入鹿は聖徳太子の皇子、山背大兄皇子一族を討ち滅ぼしたとされているのだから。
 ところがここでも関氏は、聖徳太子と山背大兄皇子の親子関係に疑問の目を向け、いくつかの資料を検討した結果、二人の親子関係を否定しているのだ。実際に正統日本史とされる記紀をいくら詳細に調べてみても、聖徳太子と山背大兄皇子の親子関係を明示してある記録は無いのだ。

 このように資料に記してある記録をそのまま提示されると、最初は半信半疑どころか疑が9割以上あったのが疑ってばかりもいられず、今一度客観的に判断してみようという気が起きてくる。
 私が歴史上の出来事で複数の説が在る場合に正否の判断をする基準は、「どの説を取った場合にもっとも矛盾点が少なく、前後のつながりに無理が無いか。」 ということである。もちろん事実は小説よりも奇なり、 ということがありますからこれが唯一無二の判断基準だと言い切るわけにはいきませんが。

 それでは通説通りに蘇我入鹿が皇子を討ち滅ぼしたと考えた場合の矛盾点はどこにあるのか?
 系図を見れば一目瞭然なのだが、意外にも聖徳太子というのは父方も母方も蘇我氏につながる、非常に蘇我色の濃い人物なのです。そうなれば当然ながら皇子である山背大兄皇子も蘇我系の人物ということになり、一族皆殺しに迄する理由が今ひとつハッキリしないのです。 山背大兄皇子はむしろ蘇我氏にとって利用価値が高かったのではないでしょうか。

 さて、聖徳太子と蘇我入鹿が同一人物だとすれば、どちらが本来の姿(に近い)のでしょうか?
 関氏の説では名前は蘇我入鹿、業績はほぼ聖徳太子のものであるとなっています。ということは今日我々が聖徳太子の業績だと思っていたものが、実際には蘇我入鹿の業績だったと。
 では何故、本来なら日本史史上最大の聖人君子である蘇我入鹿を、まったく逆に日本史史上最大の悪逆非道人に仕立て上げたのでしょうか?
 その根本原因は天皇家内部の二大勢力の抗争であるといいます。
 天皇家が日本を統一国家として統制する以前、日本が複数の国に分かれていたという考え方は今や常識とも云えることですが、統一直前に最後まで残ったのが九州王朝と出雲王朝であり、両王朝の婚姻関係によって形式上天皇家という王朝による統一国家となったものの、 後々まで天皇家内部の二大勢力として事有る毎に抗争が絶えなかったというのである。
 関氏によれば、この天皇家内部の二大勢力の抗争にほぼ終止符を打った出来事が、中大兄皇子によって蘇我入鹿が誅されたとされている大化の改新なのである。
 ところが実際には大化の改新というのは九州王朝を代表する中大兄皇子によって出雲王朝を代表する蘇我入鹿の暗殺であり、この一件によって出雲王朝は決定的な打撃を受け、以後天皇家は九州王朝系の王朝として今日に到ったのである。

 暗殺以前、蘇我入鹿は天皇として君臨し、聖徳太子にも擬せられるほどの聖人君子であったからこそ、暗殺という非合法な手段で権力を奪い取った九州王朝系の者達は真実を塗粉するために聖徳太子という架空の聖人君子を創作し、 聖徳太子に勝るとも劣らない聖人君子である山背大兄皇子一族を悪逆非道人、蘇我入鹿が討ち滅ぼす。その悪逆非道人を中大兄皇子が誅するという形で、蘇我入鹿を討った理由を正当化したのである。
 中大兄皇子の蔭には中臣鎌足(藤原鎌足)という参謀役が存在していたのであるがこの一件の後、藤原氏が朝廷内部で絶大な権力を振るうようになっていく。ところが大化の改新以後、九州王朝系の天皇も藤原氏も異常に蘇我入鹿の怨霊を恐れていたという事実が在る。 悪逆非道人を誅したのであれば何ら恐れる理由は無いのである。怨霊が祟るというのは、正統な理由無くして葬り去られた者が、葬った者を祟るのである。この理論からすると、中大兄皇子と中臣鎌足は正統な理由無くして蘇我入鹿を葬り去ったと見ることが出来る。

 関氏のこの説を受け入れるか、受け流すか最終的には読者各人の判断に委ねられるのですが、日本古代史にはこのような異説が出てくる余地が存在するということを知るだけでも勉強になるのではないでしょうか。
 いずれにしても真実はただ一つだけ、何時の日か万人が納得出来る説が提示される時が来ることを切に願います。


 なお、関裕二氏は蘇我入鹿亡き後、天皇家から出雲王朝系の人物が完全に消え去るまでのことを、本書の続編とでもいうべき『天武天皇 隠された正体』として著されています。
 興味のある方は併せてお読みされることをお薦めします。



煌めきボタン 天皇家の全国統一前、    煌めきボタン
煌めきボタン九州に実在した王朝とは??煌めきボタン

Tsuki Tsuki        Tsuki Tsuki

   ◎ 真の日本古代史を追求したい方にお薦めの一冊!!

      『よみがえる九州王朝』 幻の筑紫舞  古田 武彦
                              (角川選書)


 本書は邪馬台国研究の急進派、古田武彦氏が近畿天皇家が全国を統一する前、九州に実在した古代王朝の実在を証明するための研究成果をまとめたものです。
 九州王朝ということになれば必然的に邪馬台国との関係も非常に大きなポイントとなってくるが、もちろん古田氏は本書中でもそのことについても述べておられる。

 第一章はわずかに12ページという短さであるが、ここでは古田氏が邪馬台国の研究をはじめてから一貫して力説されている国名の誤記改定問題、魏志倭人伝(正確には三国志 東夷伝 倭人の条)に記されているとおり『邪馬台国』ではなくて『邪馬一国』と呼ぶべきであることを確認している。
 国名を邪馬一国とすることについては賛否両論在るが、現存する古版本に邪馬台国と書いてあるのが相違無い事には単に、「写し間違えだ。」 と片付けるのも違和感を感じるものがある。しかし反面、国名問題そのものは決して無視出来ない重要な研究課題であるが、 邪馬台国の所在地解明に的を絞った場合にはさして意味を持たないという意見が有ることもまた見逃せないであろう。

 第二章からが本書の主題ともいうべき部分であり、第二章は更に五節に細分されている。
 第一節は邪馬台国論争中で度々論議される魏代の一里の長さに関する研究であるが、古田氏は三国志の中でもハイライトいうべき『赤壁の戦い』の部分に記してある里程から、これも邪馬台国研究開始以来同氏が一貫して主張してこられた『魏朝短里説』を見事に証明している。
 邪馬台国の所在地解明で大きなポイントとなるもののひとつに魏代の一里がいったい何メートルかということがあるのだが、同時代史である魏志倭人伝はもとより三国志中にその説明が無いのはやむを得ないことであろう。中国では王朝が変わる度に度量衡も変わるのが常であったが、 魏と魏の政権を禅譲された晋以外の王朝は一里を400~500メートル程度に定めていたことが判明している。ところがこの数値を魏志倭人伝中に記されている邪馬台国への行程に当てはめると、邪馬台国はソウル付近からの距離5千~6千キロという日本列島を通り越したはるか彼方になってしまうのです。
 そこで実測より算出された50~150メートルを一里とする『魏晋朝短里説』、或いは三国志中の東夷伝で扱っている地域でのみ短里が使われたという、『部分短里説』が生まれたのであるが、あまりにも御都合主義に過ぎるとして否定的意見が大半を占めていたのである。  ところが中原の真只中、中国に住む者に誤魔化し様の無い、しかも測定拠点間が明確な場所での記述から魏晋朝で短里が使われていたことが証明されたのですから、かなりの幅は在ってももはや短里説そのものは疑い様の無いものになったといえるでしょう。

 第二節では古墳時代の遺跡から多く出土し、邪馬台国の女王卑弥呼が魏の天子から賜った百枚の鏡とされている『三角縁神獣鏡』は従来、当然ながら中国製の『舶載鏡』という説が大半を占めていたが、中国の社会科学院考古学研究所副所長、王仲殊氏が三角縁神獣鏡は日本製の『?製鏡』であると断定した論文、 『日本の三角縁神獣鏡について』の批判を記している。
 古田氏も三角縁神獣鏡は日本製との自説を持っており、王仲殊論文でそれが間違いでなかったことを確認している。三角縁神獣鏡を日本製とする根拠は、日本のみで出土して中国での出土例が一件も無いためである。まったく出土しない地域を製造地とするのは適切ではないという理論だ。
 また、古田氏は王仲殊論文の三角縁神獣鏡を日本製であるというする点に関しては全面的に賛同しているが、部分的にはまったく異なる見解を記してある部分もあり、これに対しては鋭い反論を述べておられる。

 第三節は福岡県の須玖岡本遺跡から出土したキホウ鏡といわれる鏡について見解を示した先達の研究論文についての批判を行い、古田氏の論理考古学に対する考え方を述べておられる。
 この章は対象としたキホウ鏡の出土地点が九州であり、出土した墳墓が王族クラスのものであろうということはあるのだが、直接九州王朝云々とは無関係である。
 しかしここに示されている古田氏の考え方は、同氏の研究作品をより深く理解するためには非常に貴重なものであると考えることができます。

 第四節には倭の五王の資料批判が記されている。
 倭の五王とは従来、相次いで中国の天子に朝貢した日本の5人の天皇であるとされてきた。『宋書』倭国伝に出てくる讃(さん)・珍(ちん)・済(さい)・興(こう)・武(ぶ)はそれぞれ、 履中(りちゅう)天皇・反正(はんぜい)天皇・允恭(いんぎょう)天皇・安興(あんこう)天皇・雄略(ゆうりゃく)天皇に比定されてきた。これにより同時代における近畿天皇家の実在が中国の同時代史によって証明されたとしていたのだ。
 ところが古田氏は両者の名が余りにも異なることに疑問を抱き、倭の五王に関する資料を徹底研究した結果、この5人は近畿天皇家とはまったく異なる九州王朝の王であることを究明したのである。
 倭の五王は盛んに中国の天子から下賜される中国風称号を欲しがり、また与えられぬのに自称して追認を要求することもあった。このあたりは古事記・日本書紀等で中国の天子と同等、あるいはより以上の立場であることを強調している天皇のイメージとは相反するものであり、 近畿天皇家とは別の王朝の5人の王とした方が矛盾が無い。
 更に九州地方には地名等で中国風述語が使われることが多く、『衙頭』(がとう)という単語から倭の五王が筑紫の君以外にないことを導き出し、倭の五王=九州王朝の王と結論付けている。

 第五節は、倭の五王が宋書に讃・珍・済・興・武とそれぞれ記されているのは、五王から中国の天子に宛てた上表文の中の自署名によるということの考察を行っている。
 下位の者が上位の者に宛てた書簡中に自署名が在るのは当然のことであり、中国側はそれを見て記録したに過ぎないというのである。
 言われてみればあまりにも当然過ぎることである。

 第三章では九州にだけ二種類存在する風土記こそ、九州王朝が実在したことの証明であるとしている。
 風土記とは勅命により各国の末端部落に到るまでの地名、自然風土、古老の相伝・旧聞などをつぶさに記した記録です。この風土記の行政区画単位として、九州以外の地方では国の中を上位の単位から、郡(こおり)・郷(さと)・里(こざと)としている。これを通称、国郡風土記と称する。
 ところが九州地方にだけは国郡風土記の他に国の中を、県(あがた)・郡・郷・里に分けた通称、国県風土記と呼ばれるものも存在するのだ。
 なぜ九州にだけ二種類の風土記が存在するのか?
 古田氏は従来の通説とは逆に、中国の行政区画単位の変換等から国県風土記の方が時期的に先行するものであることを突き止め、国県風土記をその中国風の文体からより強く中国文化を受け入れていた九州王朝の風土記であると断定した。
 国郡風土記は近畿天皇家が全国統一を果たした後、九州王朝の風土記を参考に全国につくらせたものだとしている。
 また、筑紫の国の国県風土記と国郡風土記に記されている阿蘇山の記録を比較して、阿蘇山が天地の中央にあると記している国県風土記は九州地方を中心とする王朝の風土記以外の何ものでもあり得ないとする。他にも同様の比較例がいくつか記されている。

 第三章までの文中に散見されることであるが、一般に聖徳太子が派遣したとされる遣隋使も、古田氏は中国側の記録より九州王朝の王が派遣した物であると考えている。
 中国側の記録には倭国王の名として、『姓は阿毎(あめ)、名は多利思北孤(たりしほこ)』とあるのだ。
 記紀など日本側の記録のどこを探しても、聖徳太子が多利思北孤などと称したという、或いは呼ばれたという記録など皆無なのである。
 元来聖徳太子には謎が多くその実在さえ疑う研究者も居るが、ここで古田氏が言いたいのは聖徳太子の時代にも九州王朝は存在し、隋と交易を行うほどの権勢を誇っていたということなのだ。

 第四章は古田氏が偶然その存在を知ることとなった九州王朝の宮廷舞踏として存在していたであろう、『筑紫舞』についての考察に費やされている。
 突然古田氏のもとを訪ねてきた年配の女流舞踏家の西山村光寿斉(こうじゅさい)師。
 西山村師は自分が伝えている筑紫舞のことについて、ぜひ古田氏に聞きたいことがあるのだという。一方の古田氏も筑紫舞が本当に古来から伝えられてきたものであれば、九州王朝の実在という自説を証明する強力な補完になるため、面談を心待ちにする。
 果たして古田氏の考える筑紫舞は実在したのである!  西山村師は戦前から戦中にかけて神戸の実家に逗留していた菊邑(きくむら)検校から筑紫舞を伝授された。菊邑検校は九州を本拠地とする人で、偶然にも卑しい身分の者から筑紫舞を引き継ぐこととなったのであるが、それ以前は代々くぐつ(山の民)の者達によって伝授されてきたものだ。
 菊邑検校は昭和18年に、「もう伝えるべきことは総て伝えた。」 という旨の言葉を残して西山村師の実家を辞して九州へ発たれたが終戦前後に音信不通となり、西山村師は検校が長崎に投下された原爆で亡くなったものとして毎年弔っている。 神戸逗留中も検校に影のように付き従っていた唖者の通称ケイさんも終戦直後に入水自殺をはかって亡くなり、西山村師はもはや筑紫舞の由来を確かめるすべは無いものと考えていたのだ。
 西山村師から聞いた話から筑紫舞の由来を確かめる考察をはじめた古田氏は、菊邑検校が西山村師の一家を伴って筑紫舞の最高峰とされる十三人立ちを舞った洞窟の場所を特定したり、西山村師が伝えるものの他にも筑紫舞と称する舞が福岡近郊に伝わっていることなどを確認し、 筑紫舞の存在については疑い様の無いものであることを確認する。

 果たして筑紫舞は九州王朝の宮廷舞踏であったのだろうか?
 残念ながら本書執筆の時点ではその確答は出されていない。



煌めきボタン 成吉思汗は源義経?? 煌めきボタン

Tsuki Tsuki        Tsuki Tsuki

        ◎ 歴史ロマンが好きな方にお薦めの一冊

          『成吉思汗の秘密』  高木 彬光
                      (角川文庫)


 日本の悲劇の武将、源義経が衣川で死なずに蝦夷地からシベリアへと逃げ落ちて蒙古建国の大英雄、成吉思汗(ジンギスカン)になったという『義経渡海伝説』を名探偵、神津恭介と迷(?)作家、松下研三のコンビが解き明かす高木彬光氏の歴史推理第一作。
 なお、成吉思汗は本人が漢字で署名した際に用いた字であるが、読み方はジンギスカン、チンギスハーン等何種類も使われているが発音を仮名書きにしたものである以上、喋り手と聞き手によって違いが出てくるのは止むを得ないことであろう。

 義経渡海伝説はあまりにも荒唐無稽であるとして正統な歴史家は一笑に付すような奇説である。その出自が江戸時代中期であり、義経の死後400年以上経ってからであることも正統な説として受け入れられない原因のひとつである。それ以前には義経渡海伝説どころか、衣川より逃げ延びたと云う確固たる説すらも無かったのだ。
 しかし、それでは逆になぜそのような奇説が江戸中期以来200年以上も根強く生き延びてくることが出来たのであろうか?
 名探偵神津恭介は分野違いの難題を如何にして解決するのであろうか?

 関西方面へ取材旅行中の作家、松下研三の元へ親友であり東京大学医学部法医学教室助教授の神津恭介が急性盲腸炎で東大病院に入院したと連絡が入り、大急ぎで東京へと戻り、その足で見舞いに駆け付ける。
 手術後で身体は衰弱していても頭は冴え渡ってる恭介は、何か退屈を紛らわせるような方法は無いかと尋ねる。
 野球や相撲などに興味の無い恭介はテレビやラジオでは退屈を紛らわせることが出来なかったのだ。そこで研三はイギリスの女流作家、ジョセフィン・ティの探偵小説『時の娘』に倣って歴史上の定説を覆す、ベッド・ディテクティブに挑戦してはどうかと持ちかける。 恭介が多少なりとも知識を持っている日本史の中から題材を選ぶことになったが、どうせやるなら雄大豪壮、スケールの大きいものをということで義経渡海伝説の解明に挑戦することにした。

 最初は恭介もせいぜい半日も検証すればボロが出て終わるだろうと考えていたが、いくら正統な歴史家が一顧だにしない奇説とはいえ、やはり200年以上も繰り返し論じられてきた説だけあって、そう簡単には馬脚を現さない。
 検証の手始めとして義経と成吉思汗の生没年、衣川で義経が死んだとされる時期と蒙古で成吉思汗が活躍を始める時期など基本的な整合性を確認していったが、矛盾するところは一つも無い。
 こうなると研三が書店で買い求めてきた程度の資料では間に合わず、一高からの同期生である東京大学文学部歴史学教室助教授の井村梅吉の所へ教えを請いに行き、助手の大麻鎮子を紹介される。鎮子の父親は青森で中学の歴史教師をする傍ら、義経伝説を研究していたという。 適任の助言者を得て義経渡海伝説の研究はトントン拍子に進展し、どこまで行っても確定的な否定要素は見付からない。
 3人での研究を進めるうち、鎮子は恭介に仄かな恋心を寄せるようになっていく。
 
 衣川から逃げ延びたものとして義経の逃避行路を追っていくと、宮古から八戸、津軽半島の福島、三厩までは義経一行が暫く滞在した等の足跡が残っている。その中で義経が八戸の女性との間にもうけた鶴姫と阿部七郎の悲恋伝説、『椿山心中』は後に大きな意味を持ってくることになる。
 蝦夷地と呼ばれた北海道に渡ってからは当時の住民であるアイヌが義経の名など知っていた由も無く、伝説上の人物が義経であるかもしれないという程度の想像しか出来なくなる。
 ところがシベリアに渡ってから再び義経の足跡が見受けられるようになるが、これには後世になって創られたのではないかという疑問も大きい。

 義経渡海伝説の研究も詰の段階に入った頃、井村梅吉が突然と恭介の病室を訪ねてきて論議を吹き掛ける。東京大学歴史学教室助教授という正統中の正統史学者である井村にとって、学部が違うとはいえ同じ東京大学助教授の恭介が邪説を真剣に研究しているのが我慢ならなかったのだ。
 本来ならば日本史を専攻してきた井村と、数日間勉強した付け焼刃的知識しか持たない恭介が議論をしたところで結果は目に見えているようなものであるが、恭介は持ち前の推理力を活かして見事井村の攻撃的な議論をやり込めてしまう。

 やがて恭介は退院し、今後は毎週日曜の夜に3人が集まって義経渡海伝説の研究会を続けていくことにしたのだが、最初の研究会の日に成吉思汗 イコール 義経の決定的とも思える資料を鎮子が持ってきた。
 研究の方はほぼ結論が出たようなものであったが、なんと鎮子は井村から休職、実質的にはクビを申し渡されたのだという。
 憤慨した恭介と研三は井村にかけ合うが、門前払い同然にあしらわれる。

 2ヶ月ほどして清朝最後の皇帝、愛新覚羅溥儀氏の実弟、溥傑氏の長女、慧生さんが学習院大学の同級生、大久保武道君と天城山中で無理心中をするという事件が起こった。
 恭介たちはこれを椿山心中の再現と見、歴史は繰り返すと考えた。
 成吉思汗のはるか末裔である愛新覚羅の娘が許されぬ相手との悲恋を儚んで無理心中をする。本当に歴史が繰り返すならば愛新覚羅慧生の先祖、成吉思汗は義経ということになる。
 3人は亡くなった二人の魂を弔うため天城山に出かけるが、途中泊まった熱海の旅館で研三のもとへ井村が訪ねてくる。鎮子を休職にしたのは恭介と娶わせるため、本人と示し合わせた上でのトリックであったことを打ち明ける。
 また、頑なに義経渡海伝説を否定していた井村であるが、慧生さんと大久保君の無理心中事件で自説を見直しはじめる。

 更に1年半程の月日が流れたとき、仁科東子という一風変わった女性が恭介の前に現れ、「成吉思汗という名前にこそ、清吉思汗 イコール 源義経の秘密が隠されているのだ。」 と言う。

 結局本書では源義経が逃げ延びて成吉思汗になったと確定できる要素は見出すことが出来ていないが、絶対に有り得ないと否定できる要素もまた見出せていない。
 高木氏もこれを以って義経渡海伝説研究の結論とされているが、わからないことはわからないと明確に表すという同氏の姿勢はもっとも科学的であると云えよう。これは後の高木氏の歴史推理作品に於いても一貫している。
 概して高名な専門学者が自説に都合の良い部分のみを強調して、無理矢理断定的な結果を押し付けることが多いのはそれで体面を保つことが出来ると考えるからであろうか。
 私が常々、高木氏の歴史推理物を専門書以上であると評するのは、研究成果に基づいてのみ結論を出しているその姿勢に拠るのである。



煌めきボタン 大宰府から斑鳩へ!! 煌めきボタン

Tsuki Tsuki        Tsuki Tsuki

    ◎ 法隆寺 再建説・非再建説論争に終止符を打つ??

          『法隆寺は移築された』  米田 良三
                           (新泉社)


 世界遺産にも指定され、世界最古の木造建築として日本人なら知らない者は無いと言っても過言ではない法隆寺ですが、深い謎に包まれた部分が数多く有ります。
 その中でも最たるものは法隆寺が創建当時のままの姿を現在に伝えているのではなく、途中で再建されているのだという『法隆寺再建説』でしょう。
 そもそも法隆寺は聖徳太子時代に建立された若草伽藍が基になったとされ、現法隆寺と半ば重なる場所でその遺構も発掘されています。ですから若草伽藍を初代の法隆寺であると考えれば間違いなく再建されていることになりますが、ここでいう再建とは『日本書紀』に天智天皇9年(670年)「夏4月30日、暁に法隆寺に出火があった。一舎とも残らず焼けた。」 と記されていることから、この後に今一度再建されたとされることです。
 現在、法隆寺再建説の証左とされているのは昭和修理の際、解体修理工事に携わられた浅野 清氏が中心になってまとめられた金堂や五重塔の工事報告書です。実際に工事に携わり、普段は決して目にすることに出来ない細部にわたり観察した記録として重用されるのも当然でありましょうか。
 これに対して非再建論は他の論拠により、法隆寺は670年以前の姿を現在に伝えているとするもので、最近ではより科学的な検証によりこちらの方が有力視されつつあります。


 しかし本書の著者である米田氏は、再建論・非再建論、双方共に矛盾点が有ると考え、若草伽藍を取り壊した後に他の場所に在った伽藍を移築したとする、『法隆寺移築説』を唱えるに到りました。
   法隆寺は元は九州の大宰府に在った、観世音寺を移築したものだというのです。

 建物を造る場合、まったく新しい木材を使って造る新築と、他の場所に在った建物を解体して持って来て再度組み立てる移築とがあります。木造の建築物というのは比較的容易に解体・再組み立てができるのです。
 法隆寺のような大伽藍を創建する場合、常識的には新材を使う新築が常識だと考えられています。
 ところが法隆寺の金堂・五重塔には例を挙げれば、「柱が根継ぎされている。」 「基石の形態の異なる物が混ざっている。」 「垂木を交換した形跡が無いのに伐採時期の異なる材が混ざっている。また余分な釘穴が有る。」 というように、とても新築したとは考えられない部分が多々有るのです。
 柱が根継ぎされているというのは、移築前は柱をのせる基石上面の高さが揃っていたが、移築する場所に置いた基石は上面の高さが揃っていなかったために柱の長さが足りない部分は継ぎ足さざるを得なかった。米田氏は、基石上面を水平に揃えられないというのは、当時の九州地方よりも大和地方の建築技術が劣っていたためであるとされています。
 基石の形態の異なる物が混ざっているというのは、大部分はほとんど加工の認められない自然石のままであるが、一部に柱がのる部分を円形に加工した柱座が作出されたもの、僅かに柱座を作出した形跡の認められるものが有る。当時、新築したとすれば通常は石材に加工して同じ形状に揃え、柱座を作出する筈です。それが自然石のままものが大部分で、更に形態の異なるものが混ざっているというのは、移築ということで基石工事を簡単に済ませたためであるとされています。
 垂木というのは屋根の下、軒先から奥まで通された構造材ですが、伽藍を新築する際には新材を切り出して使うのが普通ですから、建立時から交換された形跡が無いのにもかかわらず伐採時期が異なるということは有り得ない。また、余分な釘穴が有るというのは、移築時に元とは異なる場所、或いは異なる向きに使ったためであるとされています。
 また、五重塔の須弥山の向きからは法隆寺は観世音寺を移築して元通りのままに再組み立てされたのではなく、金堂と五重塔の位置を入換えてあること、更には金堂と五重塔の基壇の石材の並べ方から、金堂を90度回した向きに変えて再組み立てされたことが明らかである。観世音寺の古図から元は金堂と五重塔の間隔がもう少し広く、視覚的バランスが良かったと推測されています。
 その他にも法隆寺が移築されたものであることを示す証は多数有るとして本書中で紹介されていますが、以下、割愛させていただきます。

 さて、法隆寺が移築されたものであることは前述から充分に説明の付くことですが、では元々の大宰府 観世音寺とは如何なるものなのでしょうか。
 米田氏によると当時日本は大和地方を中心とした大和(やまと)国と、九州地方を中心とした倭(わ)国に分かれていて、大宰府は倭国の中心であったというのです。この倭国の王が上宮法王であるとされています。
 では観世音寺は何時、建立されたのか?
 現在では法隆寺昭和修理の際、腐朽が著しかったため根継ぎ交換した五重塔の芯柱基部を年輪年代測定法により測定した結果、芯柱の伐採年は591年以後であることがわかっています。
 金堂の天井、格縁の天井板と接する部分には多くの戯書・戯画が発見されているが、これらは鏡板(天井板)に彩色を施した絵師によるものである。その中に、「六月肺出」(6月に彗星が出現した)と書かれているが、種々検証の結果これはハレー彗星であり、上宮法王時代で旧暦6月にハレー彗星が出現したのは617年で有る可能性が大きい。彩色工事は建物の完成直前、1~2年程度に行われることから観世音寺の完成は618年頃と推定されています。
 金堂と一体の作品であることに間違いは無いと考えられる、『釈迦三尊像』光背銘文からもこのことは裏付け出来るとされています。

 本書、『法隆寺は移築された』では法隆寺移築の究明に留まらず、上宮法王についても触れられています。
 既に述べたように当時の日本は大和地方を中心とする大和国と九州地方を中心とする倭国に分かれていたが、日本への文明流入経路を考えれば倭国の方が明らかに文明先進地域であった。
 ところが徐々に力を付けていった大和国は倭国を武力征服し、その記念碑として若草伽藍の跡に倭国の象徴的伽藍であった観世音寺を移築したとされています。
 この後、大和国の王家が天皇家となり日本の君主として君臨することになるのだが、あたかも日本が最初から天皇家によって支配される統一国家であったように振舞うため、倭国の記録は抹消され、天皇家の祖先は天から九州に降臨し(天孫降臨)、神武天皇の時代に大和地方に移り住んだ(神武東征)という神話に書き換えられた。記録の書き換えは時代が下っても続き、余りにも偉大な王であったために完全に抹消することが出来ない上宮法王は、大和朝廷の聖人君子、聖徳太子に置き換えて記述されることとなったとされています。
 実際に聖徳太子という人物は法隆寺同様、日本人であれば知らない者が無いほど有名な歴史上の人物でありながら、これまた法隆寺同様に謎の多い人物でもあり、最近ではその実在を疑う見方も有力になってきています。しかしながら完全に想像上の人物と考えるのも無理がありますから、実在した人物をアレンジして、更には何人かの業績を一人の人物に集約して表すという手法が用いられていると考えるのがごく自然なことであると考えられるでしょう。
 米田氏の説もその中の一つとして充分な説得力を持っていると思はれるのですが、絶対的な解明が成されていない今、この説の賛否は読者一人々々に委ねられていると云えます。

 本書の後半では法隆寺移築説を補強するものとして、大宰府政庁遺跡や水城遺跡の検証、法隆寺や観世音寺の仏像に関する検証などが述べられていますが、これらは何れも法隆寺が観世音寺を移築したものであることに関わる点を除いては既設と大きく異なるところは無いと云えるでしょう。




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