☆☆ 邪馬台国研究室 ☆☆

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煌めきボタン 邪馬台国所在地を探求!! 煌めきボタン

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☆★☆★☆ 当研究について!! ★☆★☆★


当『邪馬台国研究室』は私が暇潰しで手元に在る一般向けの邪馬台国
関連書籍等の資料より女王卑弥呼の居住する邪馬台国の都を推測した
児戯に過ぎないものです。素人の児戯に等しい思い付きを記録したもので、
記述してある研究成果に関しては苦情等に一切お応え致しませんこと御了承
ください。また、史学者や考古学者等の専門家しか知り得ないレベルの話を
御教示いただきましても素人の私には到底理解出来ないものと思います。



◎ はじめに


 邪馬台国に関しては『別邸 本の家』の『邪馬台国の部屋』でも邪馬台国関連のおすすめ本を紹介しておりますが当HPを見た知人等から、「ところでお前さんは邪馬台国の所在地は何処だと考えるんだ?」 という旨のことを度々聞かれるようになりました。
 対する私の返事は、「考えてもよくわからない。自分にわかるぐらいのことなら専門家が当の昔に解明してるだろう。」 ということになるのですが、それでは相手が納得するはずもありません。別に私は邪馬台国研究の専門家ではなく、邪馬台国に関する書籍を読むのが好きで、時には魏志倭人伝に記された内容と地図を照らし合わせながら女王卑弥呼の居住する邪馬台国の都が何処であろうか推測してみるものの、結局は途中で行き詰まって投げ出すか、時間切れで止めてしまう程度のものです。
 そんな私が邪馬台国に関してHP上にページを割いてみようというつもりになったのは、先日ある友人とラジコンカーの話をしていたのが何時の間にやら邪馬台国の話になり、「やはり素人が邪馬台国所在地を解明するには魏志倭人伝を紐解いていくぐらいしか方法はないだろう。」 ということになりました。
 仮にも魏志倭人伝は当時の大国の正史なのだから、それほどいい加減なことを記してるわけがない。であるとするならば記された内容より邪馬台国所在地を解明出来ないのは解明手法に問題がある可能性が高いのではなかろうか。今一度魏志倭人伝を見直してみれば邪馬台国所在地をピンポイントで迄は決定出来なくても、九州に在ったのか畿内に在ったのかぐらいは判別出来るのではないか、ということに考え到って自分なりに魏志倭人伝の解読を試みることにしたのです。

 最近では専門家の間では魏志倭人伝に記された魏使の行程・里程は女王卑弥呼の居住する邪馬台国の都の所在地(以下、特に必要が無い限り単に邪馬台国の所在地と記す)といったピンポイントを解明するには記し方が曖昧であるため結果的に誤差が大きくなり過ぎ、正確さに欠けるという理由から意味を成さないという考えが主流になりつつあるようです。遺跡からの出土物等、考古学的な物的証拠に依って究明する方がはるかに確実だというのです。
 しかし素人が片手間に出来ることといえば魏志倭人伝に記された行程より推測し、公表された発掘結果等と照らし合わせて検証するぐらいがせいぜいです。
 また、遺跡からの出土物等の考古学的証拠物に頼る手法とて万全とは云い難い面もあります。それこそ魏帝が卑弥呼に賜った親魏倭王の金印か、同じく魏帝が卑弥呼に下賜した時代的に符合する銅鏡百枚がまとまって出土したというのでもなければ卑弥呼の墓であるとか邪馬台国の都の遺跡と断定することは出来ないであろう。




◎ 魏志倭人伝の信頼性


 『魏志倭人伝』と云っても実際にそういう名称の書物が在るわけではなく、古代中国に在った魏・呉・蜀、三国の歴史を記した『三国志』中の魏の正史である『魏志』の中に東方の様子を記した『東夷伝』という部分があり、更にその中の一部に倭と呼ばれていた古代日本の様子を記した『倭人の条』という一文が在り、この部分の通称が魏志倭人伝なのである。以下、当邪馬台国研究室では特に必要の有る場合を除き、通称の魏志倭人伝と記すこととする。

 魏志倭人伝はどの程度信頼できるのかであるが、魏志は魏から禅譲を受けた西晋の史官である陳寿が編纂したものであるから編纂時には同時代史であり、実情を熟知している者が多数健在であったのだからいい加減な事を記せる筈がなかったのである。誤差程度の食い違いであればともかく、全くのでっち上げなど記そうものなら忽ちにして間違いを指摘されたであろうことは想像するに難くないであろう。
 従って私は魏志倭人伝の内容を、『誤差程度の間違いはあるかも知れないが原則として記してある事は相当に信頼出来る』 と考る。




◎ 邪馬台国か邪馬一国か


 魏志倭人伝は三世紀に陳寿が著した原本も原版も残っておらず、現存しているのはすべて後世に写本された版本である。
 何種類か在るこの版本に記されている事が一字一句に至るまで一致していれば何ら問題無いのであるが、残念ながら写本者の解釈による改訂か版木製作時の誤植によってかは何とも云えないが異なっているところが見られ、邪馬臺国に関わる部分にも非常に大きな文字違いが存在しているのである。


 現在一般的には『邪馬台国』と認識されているが魏志倭人伝に記されているのは旧字体の『邪馬臺国』であるこれが新字体と旧字体との違いということであれば、厳密に云うと『臺』とまったく同じ新字体が無いため便宜上部分的に同じ意味を持つ『台』を充てているものの、目クジラを立てる程の問題ではないであろう。
 ところが魏志倭人伝の版本によっては『邪馬壹国』と記してあるものが存在するのである。『壹』の新字体は『一』であるから、新字体で国名を記せば『邪馬一国』となる。
 『邪馬一国』を一体何と読むのか。三世紀当時の中国語の発音からすれば『ヤマイコク』ということになるだろう。
 『壹』と『倭』が共に音が『イ(厳密には『ヰ』で『ウィ』に近い)』であるため、『邪馬壹国』は『邪馬倭国』のことであり、『倭国』の中の『邪馬国』を表しているという説も在り興味深いことである。魏志倭人伝に記されてる日本の国名が魏使が国名を音読したのを聞いて同じ音を持つ漢字を充てたものであると考えられる以上はそのように考えることも否定することは出来ないのである。
 同様に卑弥呼の後を継いだ宗女の名前も版本によって『臺與』と『壹與』と異なっているのである。こちらは新字体では『台与』『一与』となる。


 国名を記した文字が違うのであるから重大問題ということで邪馬台国か邪馬一国かで熾烈な論議も起こったのであるが、幸いにしてと云うべきか、今回の魏志倭人伝に記してある魏使の行程より卑弥呼の居する邪馬台国の首都を探求するという目的に限れば、甚だ乱暴な云い方であるが国名が邪馬台国であろうと邪馬一国であろうとどうでもよいことなのである。
 そも々々魏志倭人伝に記してある三世紀当時の国名(地名)が、日本側の明確な地名記録が残っている七世紀以後の地名まで残存している可能性はまったく以て不明であり、音の類似性によって地名を比定するのは甚だ妥当性を欠くことになるであろう。仮に音の類似性で比定するとしてもまずは行程のみにより比定した後で参考程度に留めるべきであると私は考える。
 従って当邪馬台国研究室に於いては以後特に必要の有る場合を除き『邪馬台国』という表現を用いる。
 同様に以後特に旧字体で記す必要の有る場合を除き『邪馬台国』『邪馬一国』、『台与』『一与』のように新字体で記すこととする。




◎ 魏使の出発地


 魏使の行程記述より邪馬台国所在地を解明するためにはまず第一に魏使の出発地を確定しなければならない。
 魏志倭人伝によれば朝鮮半島の帯方郡から出発した事が窺え、帯方郡の役所が在ったのは京城付近というのが定説になっている。これは当時の記録が多数残されている中国サイドの事であるからそれ程大きな間違いは無いと考えられる。ここで大きな間違いというのは京城付近が平壌付近とか釜山付近にはならないという程度のことである。
 もっとも魏使の行程記述より邪馬台国所在地を解明するという事に限れば、平壌付近であっても然したる影響は無いであろう。
 何故ならば帯方郡を出発した後は水行や陸行によって朝鮮半島を南下し、釜山か金海辺りの朝鮮半島南端より対馬、壱岐と渡航した事までは疑問を差し挟む余地が無いからである。せいぜいが行程の日数を考慮する必要がある場合に一日程度の差が生じる可能性が考えられるぐらいである。




◎ 帯方郡から狗邪韓国まで朝鮮半島内の行程


 帯方郡を出発した魏使は朝鮮半島内をどのような手段で進んだのであろうか?
 魏志倭人伝に記してあるところによると、沿岸を水行して韓国を経て南や東に進みながら狗邪韓国に到る、ということである。
 ここで云う韓国は三韓と呼ばれた馬韓、辰韓、弁韓のことであり、帯方郡と合わせて概ね現在の大韓民国の領域とみて差し支えないであろう。
 魏帝からの下賜品は相当な量になるため可能であれば水行を取りたいところであろうが、朝鮮半島西岸南部は潮の干満差が非常に大きいことで有名なところであり、沿岸航行が基本である当時の小型船では非常に航行困難であったと考えられる。従って帯方郡を出発して干満差の影響の少ない区間、群山辺り迄を水行してから後は陸行したと考えるのが妥当であろう。


 しかし対馬海峡を渡海することが出来る船が存在しているのであるから、干満差の影響を受けない程度の沖合まで岸からほぼ直角に進み、陽の出ている間だけ沖合航行しても相当の距離を進むことが可能であり、一日刻みで朝鮮半島西岸沖合を水行していった可能性も考えられる。
 何れにしろ朝鮮半島内のことに関しては水行と陸行、或いは水行のみで南へ進んだり東へ進んだり、という程度の大雑把にしか記されていないため詳細は推測する以外に無いのであるが、邪馬台国所在地を解明することのみが目的であるならば甚だ乱暴な言い方であるがどうでもよいと云っても差し支えないであろう。
 水行や陸行をして朝鮮半島南端部に達し、対馬へ渡った港は何処か?
 これは魏志倭人伝に国名以下の地点記述が無いので釜山辺りか金海辺りかはっきりしないが、対馬海流の影響を考慮すれば出来るだけ西側から出発した方がよいので釜山の方が有利であろうか。海流の影響を考えれば更に西からの出航の方が有利なように思えるものの、対馬までの水行距離が千余里と記されているため釜山辺りがせいぜいといったところである。




◎ 狗邪韓国から対馬、壱岐までの行程


 釜山か金海か、ともあれ朝鮮半島南端部から対馬に渡ったことはまず間違いは無いのであるが、対馬の上陸地点となるとこれまた詳細が記されていないため何とも決めようがないのである。
 当時としても対馬の主要部は南部であったと考えられるため常識的には西岸北部に到達し、その後は西岸か東岸を沿岸航行で南部へ向かったというところであろうか。対馬北部には古い遺跡は殆ど見られず、近年まで島を縦断する道が拓けてなかったことからして一部云われているような、北端に上陸して南端まで陸行したということはとても考え難いのである。
 まして大荷物を運んでいるのであるから安全のためには出来るだけ渡海距離を短くして北端近くに到達するものの、大荷物運搬の利便性のためには陸行よりも水行がはるかに便利であるため南部までは沿岸航行するのが妥当なところであると考える。

 対馬から壱岐への渡航も同様に考えられる。
 何処から出航したにせよ対馬南端近くまでは沿岸航行し、そこから壱岐北端目指して渡海、あとは目的の港まで沿岸航行すればよいであろう。
 対馬から壱岐へ渡海する場合も対馬海流の影響を受けるが、対馬南端から壱岐北端迄は海流をほぼ直角に横切るため見掛け方向よりも常に海流の上手側へと修正航行する必要が有り、この渡海がいちばん厳しかったであろうと考えられる。
 魏使が使った船が手漕ぎなのか帆船なのかは不明であるが、何れにせよ現代の動力船とは比べものにならない程海流の影響を受けるものであったことは間違いないのである。




◎ 方角の信頼性


 対馬から壱岐への渡海方角の誤差が大きく記述されているため、魏志倭人伝に記されている方角に関する信頼性が疑わしいという説が在る。
 この方角を『南』と記してあるのだが、対馬から見た壱岐の実方角は南東であり、このために魏志倭人伝に記されている方角は誤差が大きい、更には魏志倭人伝の方角は信用出来ないとされることがある。
 魏志倭人伝に記されている魏使の行程から邪馬台国の所在地を解明するには魏志倭人伝に記されている方角に基づいて考察しなければならない部分が多いため、もしも記された方角が信頼出来ないということであれば重大問題である。


 魏志倭人伝で方角は南北東に加えて東南が記されているので八分方位が用いられていることが窺い知れる。
 したがって記載された各方角には隣の方角との中間である22.5度プラスα程度の誤差が存在するという説も在るが、そこまで厳密に云えるものであろうか?
 次の目標地点が見通せる状況であればかなり正確な方角を決められるであろうが、そうでなければ方角の決定自体に推定が入ることになり誤差が出る可能性が高いと思はれる。
 まして対馬から壱岐への渡海では対馬海流の影響を大きく受けて東方向へ流されるため、実際の目標方角では東南でも船首方位は南、つまり南に向かって航行していくぐらいで丁度よかったということも考えられる。

 以上を考慮すれば場合によっては45度近くの誤差が出ている可能性も有り得るが、これを以て魏志倭人伝に記された方角が信頼出来ないというのは早計である。
 しかしいくら何でも南を東と間違ったり、南東を南西と間違う迄の誤差は無いものと考えられる。




◎ 壱岐から九州本土への行程


 帯方郡から壱岐までの行程では朝鮮半島内の陸行と水行、対馬内での行程など細かい部分での経路は種々考えられるものの、壱岐まで辿り着いたことに異論を差し挟んだ説は今迄に見受けられない。
 壱岐から九州本土への渡海では大多数の説で最短距離となる松浦半島北端部、呼子辺りへ上陸したとされている。同時に最短距離であることの他に末盧国と松浦の音が類似であることを決め手として上げているケースも非常に多い。
 
 しかし九州北部は陸地が隆起して海岸が沖合方向へ拡がっていく海退現象が顕著な場所であり、魏使が訪れた三世紀当時には山が海に直接落ち込むような地形が多く、末盧国に比定されることの多い呼子付近から伊都国に比定されることの多い糸島(半島)辺りまで海岸沿いの陸行は不可能に近い困難さであったことが地誌学方面より証明されているのである。
 大した荷物を持たずに旅するのであればともかく、大量の下賜品を運搬するということを考えればこの部分を陸行したという説は到底頷けるものではない。
 呼子辺りへ上陸して海岸沿いを博多辺りまで陸行するのであれば、壱岐から直接博多湾へ渡航する方が対馬海流の流れを考え合わせて自然であろう。千余里という距離的にみてもこの方が適合するのである。


 それでは魏帝からの下賜品とはどの程度の荷物だったのであろうか。
 これも品目数量は記してあるものの、残念ながら個々の下賜品の詳細に関しては記されていないため、いちばん推測しやすい鏡百枚について考えてみた。
 今までに遺跡等から発掘されている鏡は小さいので直径十センチ以下のものから、大きいのだと直径四十センチを超えるものまで様々である。このうち小さい方はどちらかというと実用品、大きい方は儀式などで使う祭器であったと考えられる。

 魏帝からの下賜品は百枚という数からして、倭王卑弥呼より配下国王等への再下賜品として使われることを想定したものと考えられる。これに魏帝の偉大さを誇示するということを加味すれば、かなり見栄えのする大型鏡であった可能性が高いであろう。
 仮に直径三十センチ程度としても一枚で四キログラム程度の重さとなる。
 これを人が長距離を運ぶとすれば、背負子のようなものを使ったとしてもせいぜい五~六枚がいいところであろう。一人が五枚運ぶとして二十人、鏡を運ぶだけでこれだけの人数を要するのである。
 他の下賜品を合わせれば、どんなに少なく見積もっても四十~五十人程度の運び手を要したであろうことは想像に難くない。

 一方、水行であればはるかに少人数で運搬することが可能である。
 例えば一枚四キログラムの鏡百枚で四百キログラム。梱包を考えればもう少し重くなるであろが、それでもせいぜい五百キログラム程度もみておけば大過無かろう。
 これぐらいなら一艘の船で充分に運べる範囲なのである。しかし帯方郡から邪馬台国まで水行するならともかく途中陸行も入るのだから人数の節約にはならないとの反論も多いのであるが、運搬責任者(運搬指揮者)クラスはともかく運搬人足はそれぞれの区間毎に現地で雇ったと考える方が自然であろう。
 江戸時代の大名行列さながらに最初から最後まで同じ人員で通したとはとても考えられないうえに、大名行列でも適宜現地案内人を雇うことは珍しくなかったのである。

 更に重要なポイントがある。
 末盧国に上陸後は伊都国まで東南五百里、奴国まで東南百里、不彌国まで東百里という具合に概ね東南方向に進んでいるということも見逃すことは出来ないのである。呼子へ上陸して海岸沿いに博多までだと概ね東北方向になり余りにも違い過ぎるのである。
 この点は一時期私がもっとも共感した高木彬光氏の神湊上陸説も、上陸後の陸行方角という点では残念ながら適合しないのである。


 私が末盧国に比定したのは何処か?
 博多湾沿岸の西端に近い辺りである!!

 現在の地名だと博多湾の中の今津湾岸、今宿辺りより海退分だけ南側である。
 三世紀当時は糸島半島は島であり、九州本土との間には糸島水道なるものが存在していたことが地質学的に確認されているため、糸島の西側辺りに到達後に糸島水道を抜けて来た可能性もあるが、もしそのような特徴ある場所を通ったのであればその旨を記したことは間違いないものであると考える。
 従ってこの時の魏使の行程は壱岐より糸島の北側を通って博多湾沿岸西端近くに上陸したものと考えた。

 友人と邪馬台国に関する話をしていたときのことである。
 当の友人というのは邪馬台国どころか歴史方面には殆ど興味を持ってないのであるが、サイトに邪馬台国研究を書いているという話から朝鮮半島や九州の載っている地図を持ち出して説明をはじめて一段落付いたところ、
 「対馬海流の影響を考えるんだったら朝鮮半島南東端の釜山辺りまで行かず、むしろ南西端の木浦か海南辺りから済州島の北東端へ渡海して、そこから島の南側へ沿岸航行して五島列島へ渡海、そこから島伝いに平戸か佐世保辺りへ行くか、長崎市辺りまで渡海して九州本土上陸というのも考えられるのではないか?」
 と言った。
 朝鮮半島から済州島間、済州島から五島列島間それぞれの渡海距離は少し長くなるがそれ自体は不可能ではないものの、上陸後の行程が行き詰まるから相当無理な解釈である。

 邪馬台国に対する先入観をまったく持っていない者が魏志倭人伝に記されている事項のみから魏使の行程を紐解くとこのような解釈も可能なのである。
 先入観を持たずに魏志倭人伝に記された魏使の行程に基づいて邪馬台国所在地を解明するつもりであっても、釜山か金海辺りから対馬、壱岐へと渡海したのは自明の理だと私自身信じ込んでいたのである。




◎ 末盧国から伊都国への行程


 末盧国から伊都国は東南に五百里と記してある。
 私が伊都国に比定したのは太宰府辺りである。
 伊都国には一大率という軍事監督のようなものが設置され、倭国中心部への関所の如き役割を果たしているように受け取れる。
 太宰府の地というのは実際現地へ行った際にに尚一層その感を強くしたのであるが、山峡という程ではないものの両側に山が迫り、倭国の表玄関である博多湾岸より中心部への出入りを監督するには当に打って付けの場所なのである。

 それ故に後の時代にも長く太宰府政庁が置かれていたのではなかろうか。
 太宰府政庁と相前後して近辺に水城という防衛のための城が築かれ、近くの山上には大野城が築かれている。  水城と大野城は太宰府政庁を防衛するためのものであるが、邪馬台国時代にも簡易的なものであったとしても水城と大野城に相当する砦を築き、一大率と合わせて考えれば、更に南方に存在した倭国中心部に対しては鉄壁の関門となっていたことであろう。




◎ 伊都国から奴国への行程


 伊都国から奴国は東南に百里と記してある。
 私が奴国に比定したのは筑前町から旧甘木町西部辺りである。

 奴国の戸数は二万余戸と記されており非常に多い方であるが、戸数に関しては国の領域と共に後にまとめて述べることとする。




◎ 奴国から不彌国への行程


 奴国から不彌国は東に百里と記してある。
 私が不彌国に比定したのは旧甘木町東部辺りである。

 不彌国は千余の家有りと記してあるが、千余戸ということで差し支えは無かろう。
 壱岐でも三千余の家有りと記しているため、これを以て○余戸有りと記している大多数の国との相違を云々する向きもあるのだが、著者の陳寿が記述した時点で思い浮かんだ表記方法を用いたに過ぎないと考える。




◎ 不彌国から邪馬台国への行程


 魏志倭人伝では不彌国への行程の次に投馬国への行程が記されているのに、何故急に不彌国から邪馬台国への行程に飛ぶのか不思議に思われる方が大多数であると思われるが、次の理由で投馬国への水行二十日という行程を不彌国と邪馬台国の間に置くことは不自然甚だしいのである。
 魏志倭人伝に記されている各区間の距離を合計すると、帯方郡から不彌国迄で一万七百余里となる。
 一方で帯方郡より女王国(邪馬台国)までの距離を一万二千余里と記してあり、仮に余里を無視した単純計算であれば不彌国から邪馬台国へは千三百里、余里ということを考慮に入れればもう少し長くなる可能性もあるが、ここで特別に距離が記されていないところからすると不彌国と邪馬台国は隣接しており実質的な距離は非常に短く、故に敢えて記する程ではないと考えるのが自然である。

 仮に千三百里が余里分だけ長くなって二千里程度になったとしたところで、この行程に水行二十日プラス水行十日・陸行一月で合計二ヶ月間もかかるというのはこれまた不自然甚だしいのである。
 帯方郡より女王国までの距離が一万二千余里と記してあるのも後の項であることも考え合わせると、投馬国への行程が不彌国と邪馬台国の間に入るものではないと考える。


 同様に『南邪馬台国に至る。女王の都するところなり。水行十日、陸行一月。』 というくだりも投馬国から邪馬台国への行程・日数を示したものではなく、帯方郡から邪馬台国までのトータル行程・日数を記したものであると考える。
 魏志倭人伝では例えば対馬から壱岐までの行程に要した日数であるとか、末盧国から伊都国の行程で要した日数といったような各区間行程に要した日数は記されていないが、帯方郡から邪馬台国までの一万二千余里に四十日かかったというのはきわめて妥当な数値であると云えよう。

 一万二千余里を帯方郡から邪馬台国までの距離、水行十日・陸行一月を帯方郡から邪馬台国までの所要日数としているのは古田武彦氏や高木彬光氏等、細部は異なるもののいくつもの先例が見られることであり決して珍しい説ではないのである。

 邪馬台国が不彌国と隣接しており、不彌国を旧甘木市東部辺りに比定した場合、私が邪馬台国に比定出来ると考えたのは旧朝倉町辺りである。

 種々考察した中で今ひとつ捨て難いのが奴国以下を少し先に延ばし、奴国を旧甘木市北部辺り、不彌国を旧朝倉町辺り、邪馬台国を日田市辺りに比定したものであるが、全体的な距離が少し長くなり過ぎる嫌いがあること、後に述べる国域の点から少々無理が有ると考えた。
さて、私は邪馬台国を旧朝倉町辺りに比定したので、従来の慣例に従えば邪馬台国朝倉説とでも云うところなのかも知れませんが、私が旧朝倉町に比定したのは卑弥呼の居住する邪馬台国の宗教的な都であり、邪馬台国の国域は旧朝倉町を中心として太宰府市辺りから筑後川下流域にかけての範囲に広がっていたものと考える。
 従って敢えて云えば、邪馬台国福岡県中南部説ということになる。




◎ 投馬国への行程


 投馬国まで水行で二十日間かかるというのは何処からの行程・日数なのか?
 私はこれを、『帯方郡から投馬国までの行程を記したものである。』 とした高木彬光氏の説がもっとも妥当だと考えた。
 水行のみで行くのは投馬国が邪馬台国からみると狗奴国をはさんだ南側に在るためで、敵国である狗奴国を通っていくわけにもいかないので海路を迂回していかなくてはならないからである。
 そのような位置に位置に投馬国が存在するのであれば。邪馬台国をはじめとする狗奴国よりも北に在る国々に立ち寄る必要が無ければ帯方郡から投馬国まで水行で直行するのは至極合理的である。

 以上を考え合わせて私が投馬国に比定したのは、国の領域として宮崎県南部から鹿児島県である。
 投馬国の国域としては高木彬光氏が比定した宮崎県辺りと云うものに比べるとかなり広くなっており、帯方郡からの水行航路も九州東岸を廻るものに限らず、九州西岸を廻っていった可能性も有ると考える。




◎ 国の領域と戸数


 私が邪馬台国の位置を考える上で大きな転機となったのが高木彬光氏の著作中で、『国とは面の広がりを持つ領域である』 というくだりを見たときであった。
 それまでは例えば末盧国から伊都国まで五百里といった場合、国の首都から首都迄という点から点が五百里と思い込んでいた。
 しかしいくつもの国を通り過ぎながら目的地を目指していく場合、途中の国では必ずしも首都を通る必要は無く、目的地間の行程が合理的になるルートを取れば良いことになる。
 この点から考えると、途中の国は国の外れ近くをちょっとかすめ通るだけでも構わないのである。
 魏使の行程としても末盧国、伊都国、奴国、不彌国とそれぞれの中心部を通って邪馬台国に達したとは限らないのである。例えば◇◇国を出発して○○国の片端を通過するときに案内している倭人が、
 「今通っているのは◇◇国です。戸数は△千戸ぐらいあります。官は▽▽といいます。副官は▼▼です。」
 と説明したのを魏使が聞き、
 では◆◆国から◇◇国までは南方向に▲里なのだ。  と判断し、
 『◆◆国より南のかた陸行▲里にして◇◇国に至る。△千余戸有り。官を▽▽と曰い、副官を▼▼と曰う。』
 と記録する。ごく自然なことである。

 では各国の領域はどの程度になるのか。
 末盧国は博多湾沿岸西端近くから松浦半島方面の海岸沿いに広がっていたものと考えられる。
 そういった意味では末盧 = 松浦ということにもなるわけであるが、魏使の上陸地点としては松浦半島の呼子辺りではない。
 また、末盧国の中心部は唐津辺りではなかったかと考えている。

 伊都国というのは少々特殊であり、国とはいっても博多湾岸から倭国中心部への関門となる太宰府辺りの軍事監督が滞在する特別地区を指したものであると考える。
 一大率という特筆されている何やら偉そうな役職者が常駐しているにしては千余戸という戸数は少な過ぎるように思えるが、これを通常の国民ではなくて常駐してる役人や軍人の数と考えれば辻褄が合う。

 奴国は二万余戸ということから非常に大きい国であることが伺える。
 この国は博多湾沿岸より太宰府を越えて小郡辺りまでの相当広い領域であると考える。
 ということは伊都国は奴国の中に存在することになるが、伊都国が特別地区であるならば何ら不思議なことではなかろう。現在のヨーロッパにも少々特殊な国だがバチカンやサンマリノという周囲を他国に完全に囲まれている例があるのだからさほど珍しくはないのかも知れない。
 ただ、博多湾沿岸から奴国の領域ならば末盧国の次に通ったことになるのに、何故末盧国と伊都国の間で記されていないのか疑問を持たれることであろう。
 その理由は奴国の首都が関門である太宰府辺りの伊都国よりも南側の筑前町辺りに在ったと考えたからである。
 奴国は倭国連合を構成する国のうちでも非常に大きな重要な国であるため、万が一の外敵からの攻撃に備えて首都を関門の内側に置いていたと考えられる。

 倭国 = 邪馬台国と考えている研究者がかなり大勢居られるようであるが、当時の倭国というのは飽く迄も邪馬台国女王を盟主として戴く連合国家であることを忘れてはならないのである。

 不彌国、これも特殊な国であると考える。
 千余の家有りということからしてかなり狭い領域であり、せいぜい旧甘木市の東側半分程度ではなかろうか。
 この不彌国というのも通常の国民が住んでいる国ではなく女王卑弥呼の宮殿を守備する衛兵が滞在する、邪馬台国の門前国家であると考えた。




◎ 邪馬台国とは


 邪馬台国というのも通常の国ではなくて倭国の首都特別区、米国のワシントンDCのようなものであると考えたのである。

 戸数は『七万余戸可あり』と記されているため倭国でいちばん大きい国だと思い込んでしまいがちであるが、倭国が邪馬台国女王を盟主として戴く連合国家であること、倭国が混乱した際に各国が女王として卑弥呼を共立したことから、七万余戸というのは倭国連合全体の戸数であって首都特別区である邪馬台国というのは決して大国ではないと考えたのである。
 もし仮に邪馬台国が七万余戸を擁する大国であったとしたら、邪馬台国が武力で周辺の国々を次々と屈服させて実力で倭国王となる方が自然なことではなかろうか。
 当時の原始的な戦闘ではほぼ 兵数 = 兵力 であり、七万余戸という圧倒的多数の人口があったのならこれに太刀打ち出来る国など存在しなかったとと考えられる。

 倭国連合の諸国家から共立され、鬼道を駆使して連合国家を統べる女王の宮殿が俗世間から離れ少し奥まった神聖な山間の地に存在するというのは、至極尤もなことである。




◎ 邪馬臺国か邪馬壹国か


 私は魏志倭人伝に記された魏使の行程より邪馬台国の所在地を解明するだけであれば、国名が邪馬臺国であろうと邪馬壹国であろうと、どうでもよいことだと考えた。
 それで女王卑弥呼が居住する邪馬台国の首都まではさして苦労する事無く辿り着けた。

 実際のところ当研究は本当の意味で片手間に行っていたため、数年間に渡って放置していることも珍しくなく、『邪馬台国研究室』をつくり始めてからでも邪馬台国の所在地に辿り着くまでに要した期間は相当な年月になっていた。
 その間に世間では色々と新たな邪馬台国研究の成果が発表され、それに触発されて放置していた当研究に再び取り組む、ということの繰り返しであった。

 当初はそれほど重要事項ではないと考えていた国名に関心を持ち始めたのは当HP『邪馬台国の部屋』(当時は『邪馬台国本の部屋』)に御訪問いただいた、『邪馬台国五文字の謎』の著者、角田彰男氏よりメールをいただき、同書を読んだときからであった。
 最初に魏志倭人伝に記された国名が邪馬壹国であることに着目されたのは古田武彦氏であり、著書『邪馬台国はなかった』にて詳細記述されていますが、古田氏の場合は概ね『壹』は『臺』の誤記ではなく『壹』が正しいのであるという検証に留まっていました。
 角田氏は『壹』という文字の意味に迄踏み込んで研究され、その結果として邪馬台国所在地のみならず、邪馬台国の変遷迄をも解明されている。

 倭国という文字を記したもっとも古い遺物は福岡県の志賀島より出土した前漢より下賜された金印であり、そこには『漢委奴国王』と刻されていて通常は『漢の委の奴国王』と現代語訳して前漢より当時の倭国を統べていた(もっとも勢力のあった)奴国王に下賜されたものだと考えられてきた。ところが以前より古代中国が朝貢国を呼称するときの慣例に従えば、『漢の委奴国王』に下賜されたと訳すべきだとの説もあり、奴国王に下賜されたのか委奴国王に下賜されたのか結論は出ていないものの、委奴国王だとすれば『委奴国』は『伊都国』の事ではないかとの意見も散見された。
 角田氏は最初に通常は金印に刻されている『委』は『倭』を略したものだとの考え方を下賜印に略字を使うことは考えられないとし、当時の慣例に従って『漢の委奴国王』とするべきだと仮定されている。
 『委奴』は『イヌ』或いは『イド』、『イト』などに現代語訳することが可能であるが、何れにせよ『委』は『イ』であって『ワ』とは訳せないとされている。

 次に『一大率』は誰(何処の国)が設けたのかを考えると、一大国という名称からすれば『一大国』が設けたとするのがもっとも話の筋が通るが、しかし小さな島国である壱岐に在った一大国が何カ国をも監視する役職を設けることは甚だ疑問に思え、そのような役職を設置するとすれば倭国連合を統べる邪馬台国であるべきだと考えられた。
 そのさなか、魏志倭人伝には『邪馬壹国』と記されているのに気付き、そうなると魏志倭人伝の中には『邪馬壹国』の他にも『一大国』『伊都国』など『イ』が出てきて、更に金印の『委』および『倭』も当時は『イ』と発音されていたとすれば、『一』『壹』『委』『伊』『倭』、五つの『イ』が出てくることに着目された。
 また、当時の壱岐は日本と中国を結ぶ重要交易路の中継地であり、魏志倭人伝中に倭全体の説明として『倭人は帯方の東南の大会の中に在り山島に依りて国邑を為す』と記されていることから当時の倭は海洋国家であり玄界灘を中心とした島々や、九州北部や朝鮮半島南部の海岸に点在していたと考えられ、さすればある程度の農耕も可能な壱岐に中心部が在って『一大国』というのも不思議ではなく、一大国を『イの大きな国』の意味であると考えられた。
 やがて時が経つと一大国は九州本土へ中心を移し、元の壱岐が海の国であったのに対して山が多い九州本土に設けた国を『山のイ国』、『山イ国』と称しており、これを聞いた魏使が発音に『邪馬壹国』の文字を充てたと結論付けている。

 巻末に於いて壱岐の原の辻遺跡で王権を示す三種の神器、『銅鏡』『銅剣』『丸玉』が発見されて壱岐にかなりの勢力を持った王が存在し、自説を裏付けるものとして当該新聞記事をいくつか掲載されて締めくくられている。

 これらを『邪馬台国五文字の謎』で見たとき、
 魏志倭人伝に記されている通り、『邪馬壹国』が正しいとするとこれ程整合性のある解釈が出来るものなのだと驚きを禁じ得なかった。

 『一』『壹』『委』『伊』『倭』、五つの『イ』から推測されただけであればともかく、従来は本土より遠く離れた島だから一島一国になっているという程度にしか見られていなかった壱岐の遺跡から王権が存在したことを示す遺物が出土したことで単なる推測で済まされるものではありません。
 ちょうど私自身が魏志倭人伝に記された魏使の行程より邪馬台国所在地を比定し終えた直後だったこともあり、『邪馬壹国』が正しい国名である可能性も高いということを前提に今一度の確認を始めた。
 結果、私が比定した各国の位置に相違は生じなかったものの、各国の国名に対しては更に新たなる解釈が発見出来ることとなった。




◎ 魏志倭人伝に記されている固有名詞の文字


 魏志倭人伝に記されている国名や人名に使われている文字はどのように決められたのであろうか。
 これには二通りの考え方があり、ひとつ目は邪馬台国側による自署名によるとする考え方である。
 『邪馬台国』とか『卑弥呼』というのは、邪馬台国の国書に署名してあったか、或いは邪馬台国使が口述で一字々々説明したか、いずれにせよ邪馬台国側の人間が決めたとする考えである。
 ふたつ目は魏国側が決めたとする説である。
 当時の倭では文字が使われていなかったため邪馬台国は国書を用いない口述外交であり、邪馬台国使が「ヤマタイコク」「ヒミコ」と喋った音に適切な漢字を選び充てたたとする考えである。

 歴史学者や考古学者等の専門家をはじめ大勢は魏国側で適切な文字を充てたとする説を取っている。
 邪馬台国側で国名や人名を表記する漢字まで決めたとすると一貫性が見られないのみか、当時の邪馬台国で使われていた発音がわからないのは何とももどかしいところであるが、日本語の発音として今ひとつ馴染まないようなものが多いようである。

 しかし一方、当時の邪馬台国で文字が使われていなかったという考え方は甚だ疑問である。
 魏国側で国名や人名に発音に合わせた漢字が充てられているとからすれば漢字・漢文を使いこなすレベルには無かったものの、まったく文字が無ければ印を下賜されても意味を成さないであろう。
 従って私は、邪馬壹国では漢字・漢文はごく初歩レベルしか理解し得なかったが、現代のひらがなやカタカナに匹敵する表音文字程度の初期段階の文字は使われていたと考える。これは一部で云われている神代文字等という御大層なものではなく、原始的な表音記号のようなものと考えた方が自然であろう。

 以上より魏志倭人伝に記されている国名や人名は、邪馬台国使が喋った音に魏国側で適切な文字を当てはめたものと考えられる。

 魏国側で当てはめた文字は邪馬壹使の喋った音をどの程度正確に表せているのだろうか。

 私は相当不正確であると考える。
 魏志倭人伝の例に限らず、外国語の発音を自国語で正確に表すというのはけっこうと難しいものである。現在の日本語には平仮名や片仮名という非常に便利で優れた表音文字が在り、外来物の名称は特殊な例を除いて発音をカタカナで置き換えていることは説明する迄もないであろう。
 ところが実際にはカタカナで表した音と、外国語での発音がどう聞いても明らかに異なるということが意外と多いのである。
 一例を挙げると、アルミ合金にジュラルミンという種類がある。航空機の機体材料として使われていることでかなり知られているものである。
 しかし英語での発音を聞くと、「デュラルミン」 としか聞こえない。
 綴りが“duralumin”であることからも、“du”を「じゅ」と発音しないであろうことは想像に難くないのだが、日本語ではジュラルミンということもまた間違い無いのである。

 決めた当時の外国人の発音が訛っていてジュラルミンに近かったのか、或いは日本人の聞き取りが悪くてジュラルミンに聞こえたのか、はたまた実際は外国人の発音も日本人の聞き取りも正確でデュラルミンだったが日本語として音の馴染みがよくないためジュラルミンにしたのか。
 今となっては想像するしかないのだが、このように実際の外国語の発音と、カタカナでの表音が違うということは珍しくはないのである。

 これが中国語となると表音文字として使った漢字を何と発音するのか、こちらも微妙なところになってくる。
 何しろ「コカコーラ」を『可口可楽』と置き換えている中国語である。「ペプシコーラ」に至っては『百事可楽』であり、当の中国人でさえ百事可楽という文字を見ただけでペプシコーラという音は浮かんでこないそうである。これこそが漢字を表音文字として使う事が如何に難しいかを表していると云えよう。
 まして千七百年も前にどのように発音されていたのかとなると尚更である。
 『卑弥呼』の当時の発音は敢えてカタカナにすると「ピャッ・ミャッ・ハッ」に近かったという研究者が居るぐらいである。
 魏志倭人伝に記された地名を音から安易に後代の地名に比定することが如何に危険であるかおわかりいただけるであろう。

 ところが最近日本語の音に関して新たな説を唱える研究者も出てきたのである。
 今のところ平安時代あたり迄の母音は現在の「ア・イ・ウ・エ・オ」5音ではなくて「ア・イ・ウィ・ウ・エ・ウェ・オ」の7音、或いは「ア・イ・ウィ・ウ・エ・ウェ・オ・ウォ」の8音であったと云う説が主流である。
 現在では通常使用されなくなった仮名文字のうち平仮名と片仮名で『ゐ』と『ヰ』が「ウィ」、『ゑ』と『ヱ』が「ウェ」に充てられていた。『を』と「ヲ」が「ウォ」であり現在でも仮名文字として残っているが、もはや母音を表すものでなくなっていることは説明するまでも無かろう。
 これに対して日本語の母音が7音や8音になったのは日本語として漢字が使用されるようになってからのことで、中国語の発音に対応するために増えていったものでおおよそ飛鳥時代以降のことであり、それ以前は「ア・イ・ウ・エ・オ」の5音であったとする説も出てきている。

 母音5音説が正しいとすれば「イ」に対応する漢字も「ウィ」に対応する漢字も一括りに「イ」に対応するものとして扱うことが出来るのであるが、それで話が簡単になるのかというと、これだけでは大して状況は変わらないのが残念なところである。


◎ 纏向遺跡をどう捉えるか

 近年、奈良県纏向の箸墓古墳近辺で大規模な都市遺構が発見され、更には纏向遺跡発見の少し後には近傍の桜井茶臼山古墳から邪馬台国時代のものと考えられる銅鏡片が多数出土し、これこそが初期大和王権と邪馬台国を直接結び付ける物証であろう。という考察が出てきたことと併せて、纏向遺跡こそ邪馬台国の首都であり、桜井茶臼山古墳が卑弥呼の墓であろう、として邪馬台国畿内説が勢い付きそうな情勢になりそうであるが、果たして纏向遺跡は邪馬台国の遺構ということが出来るのであろうか?

 魏使倭人伝の記述からすると邪馬台国は南方系の風習を持った国であったと考えれるが、纏向遺跡の宮殿と見られる建物は建物の中心に御柱を設けた大社造りとほぼ同じ様式であり、この点から巻向遺跡をつくった国は北方系の風習を持っていたと考えられる。  そうなると、魏志倭人伝が示唆する3世紀、畿内に大規模な都市を構築するほどの勢力を持った国が存在したという点から邪馬台国九州説は窮地に陥った感がある一方、纏向遺跡が魏使倭人伝の示唆する邪馬台国の風習と合致しない点からは邪馬台国畿内説にとっても手放しで喜べる状況ではないのである。3世紀、纏向に相当な権勢を誇る国が存在したとすると、同時期の畿内に全く異なる風習を持った邪馬台国が存在したと考えるのは甚だ不自然であると。
 また、桜井茶臼山古墳は魏志倭人伝に記された卑弥呼の塚とは規模が違い、時代的にも合致しないものであろうと考えられる。




◎ 邪馬台国はどの程度の国であったか


 古代中国の史書では他国の様子を書き表した場合、『◇◇国伝』と題することが多い。邪馬台国より後の時代になるが、聖徳太子が遣隋使を送った時のことを随の側から見た記載のある随書でも『倭国伝」と題してる。
では何故、魏志では『倭人伝(東夷伝:倭人の条)』なのか。古代中国の史書で『◇◇人伝」と題したものでは地域の様子を記したものが多いことから、邪馬台国というのは現代では邪馬台町とか邪馬台村という程度の規模だったのではなかろうか。そのような小さな国々が連合した地域を以てしても大国である魏から見れば到底国と呼べる程のレベルには無かったため、『東夷伝』中の倭人の条にと記したと考える。




◎ 邪馬台国の米どころは


 近年、邪馬台国九州説では邪馬台国を博多湾沿岸、現在の福岡市近辺に比定する説が多くなっている。
 大きな理由は、当時の日本としては相当数の人口を抱える邪馬台国の食糧供給のための米どころを博多湾沿岸に求めるのがもっとも自然だというのである。
 では、邪馬台国が福岡県中南部であるとした場合、その米どころは何処に求められようか。
 私は筑後川下流域の低湿地こそ邪馬台国の米どころであると考える。
 しかし筑後川は流量が極めて多いのみならず日本有数の暴れ川であり、三世紀にそのような大河川を灌漑利用する技術は無かったとする考えが根強いのである。九州を訪れた際に筑後川下流の岸辺に立ったことがあるが、天候が曇りだったためもあり蕩々たる流れは恐い程であった。
 しかし治水のために筑後川本流の流れを付け替えようというわけではなく、水田に必要な水を引いてくるだけであれば筑後川の岸辺から数メートル幅の水路を掘れば済むことであり、その程度のことであれば三世紀当時でもさほど難しいことではなかったであろう。寧ろ水を引いてきた後の利権調整の方が難しかったと考えれる。
 筑後川下流域は筑後川の治水管理が行き届いた近世になってからでも湿潤な低湿地帯の様相を呈していたのであり、三世紀当時であればそのまま水田として使えるような湿地帯であったと考えられる。
各国は種籾を蒔き稲を植えるだけで済むそのような自然の米どころを獲得しようと争っていたと考えられ、そのような米どころ獲得競争が魏志倭人伝に記された倭国大乱の一因だったと考えれば辻褄が合う。
 更に邪馬台国の南側に在った狗奴国とは長年に渡って諍いを抱えていた旨記されているが、狗奴国は熊本県北部の菊池川流域に比定されることが多く、私も邪馬台国と狗奴国が長年に渡って諍いを抱えていたということは邪馬台国とはそれほど離れていない場所に存在したと考えるのが自然であるため、狗奴国を熊本県北部の菊池川流域に比定する説には賛成であり、狗奴国との諍いというのも筑後川下流域の米どころをめぐっての争いであったと考えることが出来る。




◎ 東の海とは何処か


 魏志倭人伝の記述に依れば邪馬台国の東には海が在り、海を渡ること千余里のところに倭人の国が在ることになっているが、東の海とはどこの海を指しているのか。更には東の海を渡った先に在る倭人の国とは何処を指しているのか。

 東の海とは朝倉市辺りに比定した邪馬台国より筑後川沿い、現在の国道210号線や大分自動車道、久大本線のルートを日田市辺りを過ぎて更に東へ進み、別府市から大分市、臼杵市や佐伯市辺りの豊後水道か中津市辺りの周防灘であると考えた。別府市や大分市辺り、或いは臼杵市や佐伯市辺りから豊後水道を渡れば四国の西海岸に到達する。渡海方角は東からずれるが中津市辺りから周防灘を渡って周防灘に面した山口県の南部、防府市から周南市(旧徳山市)、柳井市辺りに到達することも充分考えられる。或いは佐賀関半島迄陸行すれば四国西岸への渡海が、国東半島まで陸行すれば山口県南部への渡海が一層容易になる。

 九州全体に対しての東の海というところに異論も有りましょうが、小郡市や久留米市辺りの福岡県中部から国道210号線や大分自動車道、J久大本線のルートで九州東岸へ出るルートは古くよりよく使われていたルートだと考えられ、更には山口県南部と九州東岸北部の間は距離こそ長くなるものの関門海峡の激しい潮流を避けられることから本州と九州間の渡海ルートとして古くより使われていたルートだと考えられる。
 投馬国を宮崎県南部から鹿児島県にかけての辺りに比定したが、邪馬台国と九州東岸間は陸行で、邪馬台国から至近の九州東岸と投馬国間は水行で往き来していたと考えられる。

 魏志倭人伝に記されている邪馬台国の東の海として九州全体から見て東側の海である周防灘や豊後水道に比定することは、余りにも御都合主義が過ぎるのではないかと、九州東岸に面していない場所に邪馬台国中心の所在地を比定した邪馬台国九州説は受け入れ難かった。
 周防灘に面し、豊後水道にも程近い宇佐を邪馬台国中心の所在地に比定した高木彬光氏の説を壱岐から九州本土への渡海距離を重視して九州本土への上陸地点を従来の定説になっていた松浦半島の呼子辺りではなく、博多湾沿岸東端の神湊に否定したことと併せて、魏志倭人伝の記述と矛盾が無く最も合理的な説であると感嘆したものの、時間を経ると神湊へ上陸後の魏使の陸行方角が魏志倭人伝の記述と合致しないこと、邪馬台国連合が尽きた南に存在する狗奴国ということを考慮すると宇佐をはじめとする周防灘や豊後水道に面した九州東岸に邪馬台国中心の所在地を求めることに疑念を持ち、東の海を九州全体の東の海とするという御都合主義では同じあっても、邪馬台国中心の所在地を福岡県中南部に比定する方がまだ矛盾が無いと考えるようになった。

 魏志倭人伝に記されている邪馬台国の東の海として九州全体から見て東側の海である周防灘や豊後水道に比定するのであれば畿内説で東の海として伊勢湾を比定して、海を渡ること千余里のところに在る倭人の国を知多半島や渥美半島、三河湾沿岸に求めることも出来るが、他の事項から邪馬台国中心の所在地が畿内へ合理的に比定出来るのでありそれが合理的に説明出来るのであれば。<畿内説だからという理由だけで頭ごなしで門前払い的に否定することはしたくない。
   例え場所が何処であろうとも、真の邪馬台国中心の所在地が解明されるその時を待ち望んでます。




◎ 最後に


 半ば暇潰しで続けてきた魏志倭人伝の記述よりの卑弥呼が居する邪馬台国中心の所在地解明ですが、初めてそれらしい事を考えてみたのは中学の2年か3年の頃。

 以来三十数年間、邪馬台国に関する一般向けの本を見付けるとは買って読み、目新しい説があるとは触発され、自分なりに考えることを繰り返してきました。その内に途轍もなく長い時間が過ぎていました。

 サイトへの掲載を思い立ってからでも十年以上経ちました。
 近年は邪馬台国関連の書籍を参考にする他に、友人知人との邪馬台国に関する会話の中からも非常に鋭い意見を得ることも多々有りました。とくに邪馬台国や歴史にまったく興味を持っていない者の意見の中には邪馬台国に関する予備知識を持たないからこそ出てくる斬新な意見がいくつか有りました。
 そのような意見に接して当邪馬台国研究室を制作するにあたって私自身一切の先入観を捨てて魏志倭人伝の記述を紐解いていこうと決心していたのですが、色々と考えを巡らせているとやはり長年に渡って頭の中に入っていた予備知識が無意識的に顔を出してくる事は止め切れないものだと痛感させられました。

 邪馬台国研究などと云うには烏滸がましい、邪馬台国妄想とでも云う程度のものにしかなりませんでしたが、どうにかまとめることが出来ました。


 2017年正月了。

 取り敢えず締め括りましたが、専門家や在野の研究家による邪馬台国研究自体がまだ々々途半ばという状況ですから今後も書き直しや追加が出てくることと思います。
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◎ 参考文献


 ◎ 『邪馬台国の秘密(改訂新版)』:高木彬光著 角川文庫版 十九版

 ◎ 『よみがえる九州王朝幻の筑紫舞』:古田武彦著 角川選書版 三版

 ◎ 『邪馬台国はなかった』:古田武彦著 角川文庫版 九版

 ◎ 『邪馬一国はなかった』:安本美典著 徳間文庫版 初版

 ◎ 『新説・奇説 邪馬台国の謎』:豊田有恒著 ワニ文庫版 初版

 ◎ 『邪馬台国の旅』:邦光史郎著 徳間文庫版 初版

 ◎ 『ヤマタイ国は阿蘇にあった』:渡辺豊和著 カッパサイエンス版 初版

 ◎ 『邪馬台国五文字の謎』:角田彰男著 移動教室出版事業局発行 初版

  以上、順不同




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